昭和四十五年五月三十一日 夜の御理解


 確かに信心はもう理屈じゃないと思うですね。もう信心は、確かに有り難うならせて頂く稽古ですが、有り難うならせて頂く事の稽古だと云うただけではいけませんが、結局、私共は日々おかげを受けておる広大無限なおかげというか、そのおかげをほんとにおかげと分からして頂く事ですよね、ですから。有り難いなあと。もう日々がそうです。もう日々が日が暮れたら大晦日と思うてとこうおっしゃるでしょう。
 今日九時に、ここに座らして頂いて、それが今日は又、五月というひと月を終わらして頂いて、まぁ皆さんといっしょに又ひと月のお礼を申し上げるんだという、そのひと月の事をあれを思いこれを思いした訳でもなかったのに、ひと月のお礼を申し上げるんだと思うたら感動が涌いてきましてね。もうどうにも出来ないそこから今日、私が感じました事なんですけれども「日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて」とおっしゃるが、日が暮れてね、大晦日と思えとまではいかんでも、せめてひと月を締めくくる時にね、ほんとに大晦日と思うてひと月の事を振り返ってみたらほんとに広大無限のおかげの中にあったんだなぁと思ったらね、もうお礼が涌いてくる。感動的にですね、お礼が涌いてくる。これが大晦日の心だとこう思うんです。そこにはね、もう「明日は元日だから元日の気持ちになろう」と思わなくてもね、私はひと月の例えば最後の日にね「ほんとに今月もおかげを頂きました、有り難うございました」というほんとのお礼が出来るなら、もう元日の心は約束されたものと同じと思うですね。間違いないです。 私は今晩それを実感しました。夜が明けたら元日と思わなならんという事じゃなくてね、例えば一日を締めくくった時にです「今日も広大なおかげを頂きまして有り難うございます」という、それこそ大晦日のような気持ちでです、あれも片付けた、これも片付けた、思うてみたら一年の事をまあとやこう云いながら何とはなしにおかげを頂いてきたもんだなぁとこう思うたらね、その感動、その喜びが感動的になってくる。ほんとにおかげを頂いた、おかげを頂いたというその心が、あくる朝まで持ち越されないはずは絶対ない。もうあくる日は絶対、それこそ清々しい元日の、いわば朝のような心が頂ける。もし元日の心にならにゃならん事につとめなければならんごたるぐらいの事では、まだ大晦日の心というものが前の晩に頂けなかったと思わにゃいかんですね。いわゆるお礼が足りなかったという事になるのですよ。私は確かにそうだと思う。だから理屈じゃないです、信心は。もうほんとに、今日もほんとにとやこう云いながら広大なおかげを頂いてきたもんじゃあるなぁとこう思うたら、有り難うなる。それがお礼になるはず。だから信心の何というても素晴らしい中心は、やはり何というてもお礼です。「ほんとに今日もおかげを頂いて有り難い」というそのお礼心がね、あくる日を、いわば元日の心で迎えさせて頂けれる程しの有り難いものが約束されるというところまでね、日々をひとつ大事にしていきたいと思うですね。又、月の締めくくりをそのような意味で大事にしていきたいと思うですね。どうぞ。